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電凸招いた「表現の不自由展」  美術家・黒瀬陽平さんが指摘するセキュリティホール
「TOKYO 2021美術展 un/real engine――慰霊のエンジニアリング」の会場でインタビューに答える黒瀬陽平さん(2019年10月、弁護士ドットコムニュース撮影)

電凸招いた「表現の不自由展」 美術家・黒瀬陽平さんが指摘するセキュリティホール

愛知県内で開催されていた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」(あいトリ)が10月14日、会期を終えた。過去最高の67万人(速報値)の来場者を記録したが、一方で会期中は絶えず問題が起きた。中でも最も波紋を広げたのが、企画展「表現の不自由展・その後」の中止だ。

従軍慰安婦を象徴する「平和の少女像」や昭和天皇の肖像を扱った作品などが展示されたことから8月1日の開幕早々、SNSで大炎上。電凸やテロ予告が度重なり、オープンからたった3日で中止に追い込まれた。愛知県では直後に検証委員会を設置、中間報告( https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/259465_883960_misc.pdf )がまとめられている。

2カ月後の10月8日、ようやく「表現の不自由展」を再開したものの、文化庁があいトリの補助金7800万円の全額不交付を決定した。これに対し、さまざまな学識者や団体が抗議声明を出し、愛知県も不服申し立てを行なっているが、いまだ解決には至っていない。

日本の美術史上に残ると考えられるあいトリ。なぜここまで問題となったのか。今後、美術や文化にどのような影響が考えられるのか。美術家・美術批評家で、自身もネットで炎上した経験のある黒瀬陽平さんに聞いた。(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)

●美術展として手続きやキュレーションは適切だったか?

ーー「表現の不自由展」では、その作品に賛否両論が集まっていますが、検証委員会の中間報告をふまえ、企画の組み立て方についてどう考えますか?

「中間報告を読むと、美術の専門家だけでなく誰が見ても、大規模イベントを開催する組織の運営として、不適切な手続きが多々あったことが明らかにされていて、なぜこれほどまでに不自然な進行をしてしまったのか、疑問に思いました。

津田大介芸術監督と主催である愛知県、キュレーターチームの三者で、情報共有ができていなかった。さらに、なぜ共有できていなかったのかも不透明で、多くのことが津田監督の独断で進められてしまっている。津田監督が、意図的にそのような密室状態を作ったことによって事前のリスクヘッジを不可能にした、というふうに読めます。だとすれば、これは作品の内容以前の問題で、単純に手続きとしてだめだったのだろうと思います」

ーー今回、激しい電凸を招き、中止の原因となった一つに、昭和天皇をモチーフにした大浦信行さんの映像作品『遠近を抱えて PartⅡ』(2019年)があります。大浦さんの一連の作品は、富山県立近代美術館(1986年)や沖縄県立美術館(2009年)で展示中止になるなど、同様の問題が起きていました。「表現の不自由展」の企画意図と合致する作品ではありましたが、きちんとキュレーションされていれば、展示中止に追い込まれることはなかったのでしょうか。

「作品の印象は、見せ方、キュレーションの仕方次第で、様々に変化します。だからこそ、芸術監督やキュレーターは芸術祭の趣旨に合わせ、然るべきやり方でキュレーションをしなければなりませんし、それが成功していれば今回のような炎上は避けられたでしょう。

とはいえ、今回のキュレーションの問題は『同じ作品でも見せ方次第で変わる』といったテクニカルなレベルではなく、それよりもずいぶん手前の、低いレベルで問題があり、それが致命的だったと思います。

たとえば、不自由展には大浦さんの新作映像が含まれていました。しかし、そもそもこの企画は、過去に『検閲』を受けたものを博物館的に並べ、その事実を知る、というコンセプトであり、だからこそ美術館でも展示できるはず、というロジックだったはずです。だとすると、そもそも新作が出ていること自体がおかしい。

実際、この新作が最も炎上してしまった。作品のテーマは天皇制ですが、言うまでもなく、表現の題材としての天皇制はとてもセンシティブな問題を伴いますし、それなりの熟慮、配慮が必要であることは間違いありません。にもかかわらず、手続きが不適切であったり、明らかに企画コンセプトから逸脱した新作が出ていたり、キュレーション以前の問題が多過ぎたのではないでしょうか」

 alt 会期中、「表現の不自由展」の中止を受け、参加作家たちが次々と抗議の展示中止に踏み切っていた(2019年10月8日、弁護士ドットコムニュース撮影)

●芸術祭が内包する脆弱性

ーー今回、美術館の企画展とは異なる、芸術祭というある種のお祭り、イベントだったことが、問題に拍車をかけたのでしょうか。

「あいトリのような『芸術祭』という形式は、ここ20〜30年で登場してきたものです。現在、国内でさまざまな芸術祭が開かれていますが、それらのほとんどは自治体の『観光事業』として位置づけられています。つまり、文化芸術事業ではなく、観光事業だからこそ予算が付けられているわけです。

現代美術を観光と結びつけることによって、現代美術の発表の場を広げ、開かれたものにしていく。地域の人や観光で訪れた人たちと接点を持つ。それによって現代美術が変化し、触れた人たちも現代美術への理解が生まれるーー芸術祭がそのような理想的な循環を生む可能性、その価値に関しては、低く見積もるべきではないと思います。

ただ、芸術祭に関わる人間が増え、作品も観客も多種多様になる一方で、安全に運営していくシステムの構築という点については、まだまだセキュリティーホールがあるのは確かだと思います」

ーーそれはどのような「穴」なのでしょう。

「あいトリのオープン直前に、ある新聞社から取材を受けました。『表現の不自由展・その後』が企画展として含まれていることをどう思うか、と聞かれたので、『おそらく、なんらかの形でクレームが来るだろうし、行政が主催する芸術祭という形式である以上、市民からの問い合わせには必ず答えなければいけない。それ自体が脆弱性であり、そこを突かれたら難しい』と答えたのですが、結局その通りになってしまいました。

ぼく自身も、ネットで炎上を経験していますが、行政から助成を受けたり、大きなクライアントがいたりした時にだけ、悪質な電凸やクレームが来ました。自主企画の時には来ません。電凸する側は、どこを攻撃すれば効率的なのか、そのセキュリティーホールをよく知っているんですね」

 alt 金属探知機による検査や手荷物検査など厳しいセキュリティチェックの上で再開された「表現の不自由展」(2019年10月8日、記者クラブ非加盟社代表撮影撮影)

●断片的な情報が流布するSNSにどう向き合う?

ーー電凸という言葉が出てきましたが、今回の問題は実際に展示を観た人だけでなく、会場外のネットを舞台に、とても広範囲に炎上してしまいました。今後、アートはSNSとどう向き合うべきなのでしょうか。

「ある程度の距離を取るしかないと思います。当たり前のことですが、そもそも美術はSNSのためにつくられた表現ではありませんし、SNSに適応しすぎた美術活動は、SNSと共に滅んでしまいます。

黎明期の頃であれば、SNSのユーザー数やネット人口自体が少なく、リテラシーが必要とされたメディアでした。しかし、今は誰でも簡単にアクセスして発言できるようになった。そのような時代に、SNSユーザーに美術のリテラシーを求めるのは現実的ではありません」

ーー作品は展示された以上、賞賛も批判もあって然るべきですが、一方で今回、前提となる事実として、断片的な情報が流布していたと感じました。大浦作品はもともと、富山県立近代美術館に展示されたものの、右翼団体や保守系議員から抗議を受けたことなどから、美術館がその図録を焼却処分にしたという事件がきっかけになっています。つまり、最初に昭和天皇の肖像を燃やしたのは作家ではありませんでした。しかし、その経緯や作家の意図が十分に伝わっていたかどうか…。

「であればなおさら、レギュレーションに反した新作を強引に展示するのではなく、その事実をしっかりと示すべきでした。その点に関しては明らかに、不自由展実行委員会側のキュレーションの不備であると同時に、その不備を放置し、改善しなかった芸術監督やキュレーターの責任だと思います」

 alt 再開された「表現の不自由展」はSNSに投稿禁止だった(2019年10月8日、記者クラブ非加盟社代表撮影撮影)

●「表現の不自由展」の炎上は免れなかったのか?

ーー「表現の不自由展」の炎上は今後、企画展のキュレーションにも影響を与えそうです。

「意図的に切り取られた断片的な情報がネットで拡散され、炎上してしまう。それ自体は、SNSが普及した2000年代末から常態化していました。しかし、あいトリの炎上は、それに関わるすべての人間を、賛成か反対か、署名するかしないか、右か左か、といった矮小な『政治』に巻き込んでしまうという点で、悪質だったと思います。そのような『政治』から距離を取らなければ、現代美術はますます単純になり、息苦しいものになってしまうでしょう。

具体的にどうやって距離を取っていくか、ぼく自身は展覧会をキュレーションする立場として、試行錯誤しています。たとえば10月20まで東京・京橋で開催していた展覧会『TOKYO 2021美術展 un/real engine――慰霊のエンジニアリング』( https://www.tokyo2021.jp )のキュレーションを手がけましたが、そこでキュレーションした作品が、ヒントになるかもしれません。

出品作のひとつに、会田誠さんの《MONUMENT FOR NOTHING Ⅵ (2019 ver.)》という作品がありました。これは、東日本大震災の時に水素爆発を起こした福島第一原発建屋を描いた巨大な作品で、原発事故に対して言及した人々のツイートによって覆い尽くされています。

もともとこの作品は、2012年に森美術館で開かれた会田さんの個展に展示されましたが、『ツイートの無断使用』であると指摘され、ネットで炎上しました。ぼく自身はこの作品を、SNS登場以降の災害の表象として、歴史的価値のあるものだと考え、出品をお願いしました。

しかし同時に、今の日本でこの作品を再展示すれば、また同じように炎上してしまうだろうとも思いました。あの震災から今年で8年ですが、当時の生々しい言葉(ツイート)を目にすれば、今でも心をかき乱され、怒りや悲しみがこみ上げてくるだろう、と。つまり、ぼくたちの心の中ではまだ『震災後』は続いているのです。

だとすれば、この作品をそのまま展示して、また震災直後と同じように炎上させることは、ぼくたちのなかの時計の針を、震災直後に戻してしまうことであり、それは展覧会として望むことではなかった。そこで会田さんと相談し、ツイートのアカウントや文章を特定できないように、半透明のシートで作品全体を覆うことにしたのです。でも、遠目にはそれが原発建屋であることはわかるし、ツイートの集積であることもわかる。そして、会田さん本人による新しい解説文も掲示しました。

全てを赤裸々に見せれば作品の意図が伝わる、というわけではありません。SNSでは常に断片的な情報だけが拡散し、作品の本質とは無関係なところで炎上が起きてしまいますが、逆に意図的に隠すことによって、『なぜ隠さなければならないのか』『なぜ見せられないのか』を考えることが可能になる。

現在は、SNSで炎上することイコール『議論されている』と思われがちですが、炎上は議論ではなく暴力の連鎖に過ぎません。一度炎上してしまえば、まともな議論は不可能になり、展覧会や作品自体が置き去りにされてしまいます。

たとえば、あいトリの炎上について『作品を見ずに語るな』という主張がありますが、『表現の不自由展』に限っては、再開時も含めて、ほとんどの人は見たくても見ることができない状態になっていました。ぼくも新聞社のプレス枠でなんとか入れてもらえないか粘りましたが、結局無理でした。もちろん、脅迫や弾圧は論外ですが、そもそも手続きに不備があったことは事実であり、その責任を誰が、どのように取るのか、という基本的な論点が忘れられてしまっているのはおかしい。

だからなおさら、炎上の手前で踏みとどまり、議論可能な問いを投げかけること、その状態を作ることこそが重要だ、という視点を持ってほしいと思います。何を見せて、何を隠すか。これが作品制作でありキュレーションなのではないでしょうか」

alt 「TOKYO 2021美術展 un/real engine――慰霊のエンジニアリング」の会場でインタビューに答える黒瀬陽平さん(2019年10月、弁護士ドットコムニュース撮影)

●展示再開がゴールではない

ーー文化庁が手続きに瑕疵があったとして、あいトリの補助金不交付を決定しました。その後も、文科省の所管する日本芸術振興会が、出演者の不祥事を理由に映画『宮本から君へ』に対する助成金内定を取り消しています。今後も影響は広がりますか?

「きわめて深刻な影響が出ると思います。あいトリ関係者や美術関係者の多くが、『表現の不自由展』を再開させ、本来の状態で会期を終えることが、あたかも何かの達成であり、ゴールであるかのように主張していましたが、それは全く間違った認識です。本当の問題は、この不交付決定をどうやって撤回させるかにあったはずでしょう。

不交付決定の影響は深刻で、すでに現代美術だけの問題ではなく、文化全体に対する検閲の可能性へ広がってしまいました。もちろん、展示を再開させ、無事会期を終えたことが、不交付決定を撤回させるための戦略、ロードマップの一部になっているのなら、それは評価できることです。しかし、展示再開することが不交付問題にどのような影響を与えるか、それによって本当に状況は良くなるのか、まだまだ全く予断を許さない状況であることも事実です。

今回、特に厄介なのは、検閲しようとする側が『民意によって支持されている』という体裁を整えてきていることです。実際に、メディアによる世論調査でも不交付賛成が5割近くあったことからわかるように、いくら芸術家たちが『表現の自由』を訴えたとしても、不交付決定は民意によって支持されている、という状況を作られ続けてしまうと、反論するためのコストが跳ね上がってしまいます。これは大変に危機的な状況になってしまったわけで、 『展示再開できて良かった』『無事終わって良かった』と喜んでいる場合ではありません」

ーー美術史上に残る問題になってしまいましたね…。かねてより、政治と表現の自由との関係はある種の緊張感がありましたが、今回、かろうじて保たれていた一線が破られた気がしました。

「文化行政のあり方について、『お金は出すが、口は出さない』が理想だと言われますが、今回は『口を出してない』という理屈を付けて、不交付だと言ってきたわけです。こちらの戦略も織り込み済みで、さらに手を打ってきています。それを言わせないためにはどうすればいいのか、とても難しいと思いますが、現実的に考えなければいけません。

そのためにも、観客と作品の対話が不可能になるような状況をつくってはいけないのです。『表現の不自由展』に関する一連の騒動は、不用意に炎上させたことによって、そもそも対話する気がない人たちに対して門戸を開き過ぎてしまった。自治体が主催する公的なイベントであるトリエンナーレは、そうした人たちを拒むことができないので、一度開いてしまった扉を閉じることは難しい。

優れた表現であればあるほど、時代を超える力を持っています。そのような表現は必ずしも、同時代の観客の誰もが、同時に、その瞬間理解できるわけではない。作品を読み解き、理解するためには時間がかかったり、人によって受け止め方が違ったりします。優れた芸術を保存し、後世に伝えていくことが重要だとされているのは、人間の理解にはそのような『時差』が、必ずあるからです。作品が10年、100年、1000年と残っていくからこそ、それぞれの時代の人たちが、それぞれ異なるタイミングで理解することができるのです。

そのような芸術との出会いの場には、SNSや政治活動とはまったく違う時間が流れています。今回の炎上は、その異なる時間軸をメチャクチャにかき乱し、芸術との出会いの場を壊してしまった。そのような暴力に対して怒りを覚えると同時に、とても悲しい結果になってしまったと思います」

●「芸術祭の時代」の終わり?

ーー現在、さまざまな問題から得た知見や反省を参加作家らが『あいちプロトコル』として、まとめようとしています。あいトリは終幕しましたが、今後も、全国で芸術祭は開催されます。今後、芸術祭はどうなっていくのでしょうか。

「正直に言うと、ぼくのなかには、二つの相反する気持ちがあります。一つは、芸術祭なんてもう終わってしまえ!という気持ちが半分。どういうことか、説明しましょう。

ある新聞社のインタビューを受けた時に、あいトリ騒動によって『芸術祭の時代』の終わりが来るのではないか、とコメントしました。現在、これだけ日本中で芸術祭が乱立しているのは、今回のような問題をうまく避けてきたからです。炎上しそうな作品をどうするか、炎上したらどんな対策を取るか、どういう手続きで、誰が責任をとるのかーー そういったセンシティブな問題に対して、正面から議論することを避け、曖昧にしたまま、『町おこし』としての効果ばかり宣伝してきた。

しかし、あいトリによって最悪の前例ができてしまいました。これからはすべての芸術祭が『あいトリのような炎上が起きるかもしれない』というリスクを前提に企画を立て、運営しなければなりません。これまでの芸術祭は、低予算でできる流行りの『町おこし』だったからこそ、全国各地に乱立していたわけですが、あいトリのようなリスクを背負ってでも芸術祭をやるのか、と問われれば、手を引く自治体は少なくないでしょう。個人的には、芸術祭を『町おこし』としてしか考えていないような自治体は、そもそも芸術祭をやらないほうがいいと思っていたので、減ってしまって結構、という気持ちはあります。

しかし一方で、現代美術という専門的で、本来とてもニッチなジャンルが、芸術祭という形式によって日常に開かれ、実際に、現代美術のかたちが多様に変化していることはきわめて重要な成果ですし、文化の進歩だと思っています。その流れを止めたくない、という気持ちもあるので、とても複雑な気持ちです」

(おわり)

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