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寄宿舎を「豚小屋」と表現した『女工哀史』が描かなかった女性労働者の食と喜怒哀楽
細井和喜蔵『女工哀史』(三康図書館蔵)Kaizōsha, Public domain, via Wikimedia Commons(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Joko_Aishi,_Sanko_Library.jpg)

寄宿舎を「豚小屋」と表現した『女工哀史』が描かなかった女性労働者の食と喜怒哀楽

文筆家の細井和喜蔵が約100年前の女性労働者たちの実像を描いた『女工哀史』。内縁の妻である高井としをの体験が描かれているが、高井自身が描いた『わたしの「女工哀史」』も存在する。

『女工哀史』では、女工寄宿舎を「豚小屋」と表現したが、その「豚小屋」を生きた高井としをはどんな思いを抱えていたのか。

女性労働者の「間食」に着目した歴史地理学者の湯澤規子・法政大学教授の新著『焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史』(KADOKAWA)から一部を抜粋してお届けする。

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●違和感の吐露は「愚痴」ではなく「抗いのかたち」

  ある夏の日、東京モスリンでもストライキがあり、寄宿舎内の大広間で決起集会が開かれていた。そこでとしをは、世界の中で日本は一番労働運動が遅れていること、外国の8時間労働や賃上げのこと、自由の権利などについての講演を聞く機会があった。

としをの言葉によれば、「むつかしい話が多く、私たちはぽかんとした顔できいて」いたという。けれども、いや、そのような中だったからこそと言うべきか、としをは何か言いたくてたまらなくなり、演壇に上がって次のように言葉を発した。

みなさん、私たちも日本人です。田舎のお父さんお母さんのつくった内地米をたべたいと思いませんか。たとえメザシの一匹でも、サケの一切れでもたべたいと思いませんか。街の人たちは私たちのことをブタだ、ブタだといいますが、なぜでしょう。それはブタ以下の物をたべ、夜業の上がりの日曜日は、半分居眠りしながら外出してのろのろ歩いているので、ブタのようだというのです。私たちも日本人の若い娘です。人間らしい物をたべて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので、食事の改善を要求いたしましょう。(注1)

この決起集会で先に語られた男の言葉に対して、女の言葉、工場で働く女性労働者自身の言葉として発せられたのは、「食事」という日常茶飯についての問題提起であった。この演説に対する聴衆の反応、会社の対応はとしをの言葉によれば、次のようであった(句読点は筆者が補記した)。

これがわたしの要求です、いいましたらね。それこそね、今までえらい人の演説よりもね、一番よく拍手をいただきましてね。それをね、あの要求の中に入れたんですね。そしたらね、その要求だけ通りましたの。(注2)

海外の労働運動との比較や、自由の権利など、どこか他人事のいわば「大文字の」議論ではなく、日常茶飯に目を向けた「等身大」の抗いから、社会というよりは、まずは目の前の日々を変えていこうとする発想を、としをは持っていたのだとわかる。

考えてみたいのは、こうした発想は長らく、大上段からの大文字の思想や運動に比べて一段低く見られてきたのではないか、ということである。日々の暮らし、食卓や台所の中で実感されてきた違和感の吐露は、些末な日常茶飯事についての「愚痴」とみられることはあっても、社会に対するひとつの「抗いのかたち」として見られることはほとんどなかったように思われる。

それは、『女工哀史』の著者である細井和喜蔵でさえも同様であった。少なくとも『女工哀史』の中では、としをのこうした視点やものの考え方に深く共感して、それが取り上げられることはなかった。むしろ「女工寄宿舎─それは一言にして『豚小屋』で尽きる」と細井は説明し、そこには愛と自由がなかったと強調する。

しかし、後にとしを自身が書いた『わたしの「女工哀史」』には、日常茶飯に関わる、より具体的な人間関係を含めた女工たちの日常生活世界が生き生きと描かれている。『女工哀史』が刊行され、わずか1年後に細井和喜蔵が死去すると、彼女は細井の未亡人であるとは明かさずに、工場で働き、同僚たちと争議に参加しつづけることを望んだ。例えばその時の出来事や気持ちを、としをは次のように記録している。(注3)

私も紡績女工だといって仲間に入れてもらい、夕食にはにぎりめしと梅干、塩サンマのおかずで、久しぶりに働く仲間大ぜいとにぎやかな夕食をいただいて、そのおいしかったこと。

(筆者注・大阪で)寄宿舎へ案内され、夜になって20人ほどの仲間の人びとに紹介された時は、ほんとうに嬉しかった。生き返った気持ちでした。

としをにとって工場での生活と、そのなかでの食事は、一緒に働く仲間や、気にかけてくれる炊事係との関係にみるように、「少なくともここでは孤独ではない」と確認する場であった。つまり、孤立した胃袋が、集団のなかで居場所を見つけた胃袋となる場であったのである。そこでは何を食べるかはもちろん、誰と食べるか、どこで食べるかが重要な意味をもっていた。

これはこの時期の工場労働の厳しさを否定するものではない。ただ、その厳しさのなかで拠りどころがあるとすれば、それは工場の食堂であった。そこは、胃袋が集団化することで、とりあえずは日々の食べものを心配する必要から解放され、誰かと食べることで孤独に苛まれることがない場所であった。

たとえ外からみると「ブタ」に見えようとも、その一人ひとりには喜怒哀楽がある。もちろん工場労働の厳しい局面もあるが、日常茶飯の事々の中に喜びや嬉しさを見出すことができる「個性と人格」をもつ女性たちの生活世界があった。このようなことを示唆するとしをの文章は、集団的な女工の状況を描いた『女工哀史』と比べて、実存したある一人の女工の経験の記録となっている点で説得力があり、貴重であると言えはしまいか。

[注]
1 高井としを『わたしの「女工哀史」』岩波文庫、2015年(底本は1980年に草土文化から刊行された)、68頁。
2 現代女性史研究会編、高井としを著『ある女の歴史(その1)──私の歩んだ道』現代女性史研究会出版部、1973年、13頁。
3 前掲1、105頁、115頁。

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